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from Hip

2022.08.01

From HIP -8月号-

さて、わずか4歳で、幼稚園を中退する。

という悲しい過去を背負ったわたくしのその後。
小さな長屋で昭和の典型的な核家族を始めた両親と、異様に出来の良い姉との4人家族のごくごくありふれた暮らしが始まりました。

私はといえば、小学校入学を1年後に控えた翌年の4月に、引っ越し先の近くの幼稚園に入園するまでの間は、くるくるとよく家事をこなしていく母親の後ろを、一日中ついて回り、やることの無い退屈をやり過ごしながら、ご多分に漏れず、子供にありがちな、なんか面白いことないかな?の日々を過ごしておりました。
後に大ヒットとなる「ちびまる子ちゃん」は、まさしく私だ!
というような子供時代でありました。
これもまた後に知るところとなるのですが、私の育った時代はベトナム戦争の真っただ中、アメリカは私の中では唯一の外国。
1ドルは360円でしたし、英語以外にはよその国の言語があるなど、全く知りませんでした。
なんでもおしゃれで素敵なものはアメリカから来るように思っていたものです。
昭和30年代に生まれております私には、いわゆる太平洋戦争のことについては、まったく知りません。
戦争の時代に学生であった両親からは、おそらく、その話はよく聞いていたはずでしょうが、
自ら求めていたものではなかったので、実感はありません。

ただ、その後の朝鮮戦争や、ベトナム戦争は、日本に大変な好景気もたらしていたはずで、サラリーマンだった父の給料は、どんどん上がり、目の前の食卓に並ぶ夕ご飯は、日進月歩良いものになり、小さな長屋住まいの狭い台所には冷蔵庫、勝手口の外には洗濯機、くるくる回るローラーの絞り機のハンドルも輝き、もちろん白黒テレビに、極めつけは、なんと、狭い6畳間にアップライトのピアノの黒い漆がピカピカに磨かれて鎮座しておりました。
教育熱心だった母の考えだったのでしょう。
姉と私は、神社の杜の中の幼稚園で開催される「ヤマハの音楽教室」でオルガンを習い、3歳違い、2学年上の姉は2年間のコースを晴れて卒業し、転居を機に、お近くにお住いの素敵な先生のお宅へ、個人レッスンでピアノを習いに通い始めておりました。

私はといえば、志も半ばで、幼稚園を中退しているわけですから、「ヤマハの音楽教室」も、卒業に至るはずもなく、姉と同じように個人レッスンの先生のお宅へ通うようになるわけです。
これが、新たな幼稚園入園後なのか、小学校入学後であったかは定かではありません。
全てにおいて “出来の良い” 姉は、後に音楽大学のピアノ科に入学致しますので、おそらく私は“おまけ”のような物だったのではあるまいか?

2年間の全過程は全うしなかったものの、「ヤマハの音楽教室」もしかしたら「オルガン教室?」は私にとっては楽しい事この上なく、歌ったり踊ったり間違えても多勢の中の一人ですから指摘されることもない、オルガン演奏も例えでたらめでも楽しいものでした。
ところが、個人レッスンは苦痛で教本をピアノの譜面台に置きレッスン前後には「練習」をしなくてはならないのです。
わずか半年程度で赤いバイエルに「ピアノなんか大嫌い」と大きく書き込みまして、レッスンを辞めさせてもらいました。
この時も、幼稚園の中退時よろしく、あの手、この手を使ったのは言うまでもありません。

昭和30年代、40年代の「ヤマハ音楽教室」のオルガン戦略は「教育」。
それも、子女教育に飢えていた若い母親達の心を大きく揺るがし、その娘たちのその後の人生にも大きな影響を及ぼしたものだった事でしょう。
私もその恩恵を良くも悪しくも被り、「教育」に目覚めた私の母親世代に生々と「子育て」「教育」をさせる事となっていった訳です。

話は古き良き昭和の子女教育となりましたが、そうそう、と思われる同世代の方もいらっしゃいますよね。
こんな風に私の小学校生活は始まって参りました。

今回のお話は終わり。
すべて志半ばで終えている私の“お稽古事”はこの後、どんなふうに展開するのか?

また来月、お会いいたしましょう。

この続きはサロンで。

2022年8月
山宮博子

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